人気ブログランキング | 話題のタグを見る

焼酎看板コレクション


街で見つけた焼酎看板を紹介するBlog
by minaminkaze
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
フォロー中のブログ
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

「霧島自慢」(林産業合資会社/西諸県郡高原町)

「霧島自慢」(林産業合資会社/西諸県郡高原町)_d0082587_2237721.jpg


JR高原駅の前を走る県道に街灯が立っている。

地元商工会で建てた物なのだろう。統一されたデザインに沿線の店舗の名が入っているのだが、その中の1本に目が止まった。焼酎のものと想像されたが、付近には閉められた酒店があるだけで、蔵元・・・といった風情の建物はなかった。ともかく謎の銘柄だった。

初めてこの看板を見て、高原町内を聞いて回ったのは5年くらい前になるのだが、結局はっきりとしたことは分からなかった。ただ、昔々のこと。町内には国鉄の線路を挟んで2つの銘柄があったようである。一つが現在も高原町の中心部で酒店を営まれている“霧島泉”。そしてもう一つがこの画像の“霧島自慢”・・・か?

前者はお店に行けばまだ当時の事を聞くことができるかも知れない。ただ、後者はその看板の袂にあった閉められた酒店が製造していた・・・ということ以外は分からなかった。

存在はおぼろげに見えてくるのだが、相当古い焼酎の様で、その実体というものにはなかなかたどり着かない。味の感想・・・。癖があったとか、安定した味だったといった過去の焼酎探査につきまとう人の記憶はあいまいだ。ただ、地元の人は“日向自慢”を「自慢」、“霧島泉”を「泉」と区別して呼んでいたとある酒店で聞いた。以前焼酎に関する書籍を出された宮崎市の田代先生も「泉」についてはその中で紹介されているので、存在は間違いないのだろうけれど。

More

# by minaminkaze | 2010-03-18 22:53 | 宮崎県(西諸県)の看板

宮崎交通バス「宮崎22か 594」を観察する。

宮崎交通バス「宮崎22か 594」を観察する。_d0082587_21595653.jpg


1926年に創業後、宮崎県内の公共交通ネットワーク形成と存続に大きく貢献し続けている宮崎交通。白地に濃淡のブルーのストライプが入ったボディは明るい印象を覚えさせ、“南国のバス”という形容がしっくり来る。

マイカー普及率が全国9位と異常に高い宮崎県である。立地条件から経営環境が悪化し、一時、産業再生機構の支援を受けるなどした時期はあった。だが、県内各地を結ぶバス会社である。バスは沿線への効果的な宣伝媒体であり、宮崎交通では1ヶ月から2年という契約期間の元、ラッピングバスの運行を行っている。農業団体、行政、食品と地元密着型なフィルム広告をまとったバスが県内を走るのだが、焼酎会社も霧島酒造や雲海酒造といった大手2社に加え、正春酒造の“逢初”のラッピングを見かけたこともありましたね。

そうとはいっても、ラッピングバスのような広告というのはここ最近の動きであって、やはりバス広告というのは、ボディに掛けられた外側、後部の広告板ではないか・・・と思う。

そう思って撮影の機会を狙っていたのだが、南宮崎駅の駅前広場に1台のバスが駐まっていたので、観察してみようか。

More

# by minaminkaze | 2010-02-21 22:22 | 宮崎県(宮崎)の看板

「岩乃鶴」(岩乃鶴酒造株式会社/西都市))、「浜ゆう 白麹」(雲海酒造株式会社/宮崎市)

「岩乃鶴」(岩乃鶴酒造株式会社/西都市))、「浜ゆう 白麹」(雲海酒造株式会社/宮崎市)_d0082587_2104783.jpg


西都市都於郡地区。ここには“都於郡城”という山城があった。

建武4年(1337年)に伊東祐持によって築かれて以降、佐土原城とともに伊東氏の本拠地として戦国期には日向国全域の支配に大きな影響を及ぼした。台地全体に城域が築かれ、健在の頃は“浮船の城”と称されたそうだが、伊東氏は隣接する島津氏と日向国の領有を激しく争い、元亀3年(1572年)に今のえびの市加久藤地区を舞台に繰り広げられた木崎原の戦いで敗退。以降、没落の道を辿る。その後の日向国領有は伊東氏が頼った豊後の大友氏と島津氏との間で繰り広げられていく。

太閤秀吉による島津征伐の以降は佐土原城と共に島津氏の支配下となり、江戸幕府の治世で一国一城のお達しからその役目を終えた様である。

現在、城址がその名残を伝えているだけ。それを真っ正面に見る形で都於郡の市街へと入る道路が延びている。

久々に界隈を通ったのであったが、5~6年前まで営業していた商店が閉店していたり・・・と休息に寂れてしまったようにも感じた。市街の一番奥に位置していた焼酎蔵“岩乃鶴酒造株式会社”はすでに近くにある鹿野田の工業団地に移転し、高千穂の資本の元に“西の都”という甘藷焼酎を作っている。

その痕跡は少し前までは界隈の酒屋の外壁に見つけることができた。だが、何年か続けて大きな台風が宮崎県を襲来。いつの間にか無くなってしまった様である。

先述の閉店した商店のビニール庇に“岩乃鶴”を見つけた時には「おおっ!」と思った物だ。蔵の近くにある寺院「大安寺」に舞い降りていた鶴の群れに銘をもらった酒だ。最末期に一度蔵で焼酎を購入したことがあり、また、飲食店でこれを飲む機会を得た。長く寝ていたのか、まさに甘露といった味わいであり、また、蔵の雰囲気も昔ながらの集落の酒といった感じで、素朴。好感を通り越して衝撃を感じたことが機能のように思い出される。

また、見えづらいがこの庇には「浜ゆう 白麹」のロゴも入れられている。今は「日向木挽」だが、この前身が「浜ゆう」であり、私の知る範囲では麹の違いを銘柄に表記した初の焼酎である。宮崎市高岡町にある工場で作っていたと記憶しているので、高岡からはそう遠くない都於郡地区までの営業があったのであろう。当時の焼酎勢力図を推し量るに興味深い資料である。

# by minaminkaze | 2010-01-12 21:37 | 宮崎県(児湯)の看板